2024年 2月18日 更新

 

 

 見出し写真は、田野畑村の松前沢(南側)坂(現在”辞職坂”と呼ばれる)です。浜岩泉村から約130mの高さを松前沢まで九十九折れを下り、沢の橋(今はない)を渡り、田野畑村にまた急斜面を九十九折れ坂を同じ高さを登る、という浜街道の難所の一つです。毎日ここを上り下りする多くの人々がおりました。この道などを一揆の人々は南下していったのです。

(当時の一揆は”押立(おしたて)”と書かれている文書が多いようです)

 

 当時、小さな子供がいる一家の、その子供の思い出として以下の話が残っています。いつものように夜寝ていてなにかで目が覚めたら隣に寝ている父も母もいなかった。遠くではボーボーとほら貝の音がして外が騒がしい感じがあった。人が一杯いる感じがした。おっかなくなって隣の部屋のばあちゃんにいって暗い中抱きついたら、ばあちゃんは声を立てずに泣いていた・・・。その話を聞くと涙が止まらなくなります。やむにやまれず、自分たちの生まれ育った土地で生きていくため、あるいはその故郷を捨てる、命を懸けた行動。農村漁村山村を問わず、当時の支配者の情け容赦のない、死ね、と言わんばかりの政(まつりごと)とはいえない,義を重んじるべき武士階級が、そんなものなどない、とばかりに次から次に課す重税に、家族が生きるために団結して立ち上がった一揆の始まった夜の話です。

 

 現代、その結果を知っている立場から見ても、立ち上がった人々は、生きて故郷に帰れるとは思っていなかったと思います。家族とも二度と生きて会うことはない、という悲壮な覚悟で故郷に別れを告げたに違いありません。

 弘化四年と、ここで取り上げた嘉永六年の二次にわたる三閉伊一揆についての研究はかなり進んでいると思いますし、歴史研究の素人の筆者がそこに首を突っ込んでもしょうがありません。

  しかし近世の街道をいささか研究する者として、あまり知られていない、立ち上がった一万六千人あまり、その頭人(代表者)四十五人の仙台での真に命をかけた盛岡藩(仙台藩が仲介したことになる)との鬼気迫る交渉。そしてほぼ要求を勝ち取り、盛岡藩代表の一札を取り、帰ることはないと覚悟していた故郷の村々。その(仙台からの)故郷の村への帰還の道筋に関して、独自に調査研究、踏査しここに記録したいと思います。

1,嘉永六年三閉伊一揆概略:

  ペリー来航と同じ年に、野田通・宮古通・大槌通の様々な職種のお百姓衆1万6000人余りが、過酷な盛岡南部藩の数多くの新たな税制などに一家・地域(村々)の命をかけて立ち上がりました。七年前の弘化四年の一揆に続くものです。弘化の一揆は一万二千人余りが、遠野南部に押し寄せ、要求をした事項は盛岡藩側は、受け入れるジェスチャーをみせることで終結させるように仕向けましたが、結果約束はすべて反故にされました。当時の三閉伊通の人口は6万人余りと言われています。その命がけの要求を通すため、組織だって藩境を越え、仙台伊達藩の現在の釜石市唐丹町に越訴しました。その後紆余曲折し、仙台藩の配慮で代表者(頭人)四十五人が仙台まで往き、そこで南部藩代表者たちと交渉を行い、49条の要求のほとんどを認めさせ、藩側代表者の一札を取り、一揆の頭人(リーダー)たちから一人の犠牲者もださずに故郷に戻りました。しかしその際の帰還する正確な道筋は意外に知られていません。その帰還する道筋(岩谷堂から)についての調査・踏査し記録します。

・嘉永六年五月十八日、田野畑村の太助さんなどが一揆の行動を開始。

・野田通、宮古通北部などから人数を集め南下、五月二十九日宮古入り。

・戸川通(閉伊川筋の村々)、小国周辺の村々、大槌通の人数も集まり、六月四日総勢一万六千人あまり(その内の四千人あまり)が釜石から仙台領唐丹村に越境。

・七月十六日 田野畑村から第二次押立、二千人余りで門から岩泉、乙茂、中里を通り南下し、宮古の常安寺の寺坂あたりで藩の軍勢と衝突。

 (盛岡南部藩との交渉が進まないため、これを行い交渉進捗を後押しした。仙台領に残った頭人とどのようなやり取りがあったか詳細は不明)

・唐丹村から頭人四十五人を残して、逐次人数は各々の村に帰る(第二次押立を経て、仙台で盛岡藩との交渉を行うために

 村々の代表者を残した。名簿がいくつか残っておりますが、偽名を使っている者も多くありました)。

・八月十八日、四十五人唐丹村から盛町に移動。

・九月十三日、四十五人盛から厳重な監視の下、仙台に向かう。気仙沼、志津川、などを経て九月十七日仙台国分町庄司屋惣七方(宿屋)に入る。

・仙台藩の仲介で盛岡藩と交渉し、ほぼ妥結し要求をほぼ完全に勝ち取り、盛岡藩代表者遠野南部藩主で盛岡藩大老の八戸弥六郎の一札を取り、

十月二十七日、帰村についても承諾。

・十月二十九日、盛岡南部藩交渉代表者、遠野南部当主、大老南部(八戸)弥六郎帰還の一行の後ろにつくように仙台出発。

  交渉妥結後すぐに帰村するように、となったようですが、故郷の村々から迎えに来ていた頭人の親族などを、帰村に際し、藩が約束を守らないで、帰路に役人を配置して拘束する準備をしていないかなどを偵察の上、用心に用心をして藩の代表者でお咎めなしとした責任者の八戸弥六郎の

行列の後方につくように故郷に向かったようで、その用意周到さは舌を巻くばかりです。

  奥州道中を北上し

   同日   吉岡、三本木新町、月舘、高清水 泊

  十一月朔日 一関 亀屋宇兵衛 泊

     二日 水沢 後藤屋与三郎 泊

     三日 岩谷堂 和賀屋旅館 泊

     四日 人首 三嶋屋伝兵衛 泊

     五日 五輪峠(藩境)を越えて鮎貝 泊

       (鮎貝から小友峠を越えたのか、遊井名田に出たのかなどなど、ここの経路は不明で、現在調査中です。

        最も有力なのは遠野人首の街道として一里塚がある小友峠を通るルート主街道であり一般的であったようで、これが公道で

        遠野藩主はここを通るでしょうから、この経路で歩いたと考えますが・・・)

     六日 遠野 泊 七日・八日両日逗留(遠野南部家当主・盛岡南部家大老弥六郎より酒肴あり)

       (遠野からは自分の村々にそれぞれに帰れ、とのことでここから銘々が自分の村にばらばらに帰ったともいわれます。しかしこれだ

        け用意周到で深い思慮をする一揆衆が、今後の打ち合わせなどなしに(八戸弥六郎城下の遠野でそれはしないでしょうから)

        さっさと各々の村に帰るとは思えません。)

     九日 大槌 泊(大槌・和山街道を通ったと思われる)

     十日 山田 泊

     十一日 宮古着 新町”糸屋” 十二、十三日まで逗留。

     十三日野田通衆出発。

      (宮古市金沢家文書によれば、大槌通惣人数も宮古まで同道した、との記録あり。

       当然要求が通っても弘化四年の一揆の際には

      盛岡藩の約束した事をことごとく破られており、今後のことなども相談してから解散するのは当然と言えます。

      むしろ今後のことについて話し合い、打ち合わせをしない方が不自然です)

 

 ここでは水沢、岩谷堂から遠野までの帰路に関して調査結果を示します。岩谷堂から人首までは盛街道、人首から遠野までは五輪峠経由の遠野街道を記録します。

(2022年8月16日現在、文献、聞き込みなど現時点での調査結果にて、鮎貝から遠野までの経路に関しての文献的情報は現時点で皆無です。)

     

2,水沢から岩谷堂、人首、五輪峠(藩境)、小友から遠野まで

 この経路は、水沢から人首までは”盛街道”と一致する。

(1)水沢~北上川の渡し

 仙台から奥州道中を北上した頭人45人は、十一月二日水沢に宿泊、三日に岩谷堂に泊まっている。

岩谷堂には北上川を下川原の渡しで渡河しなければならないが、宿から渡しまで、どの道を通ったかは記録を調べた限りでは不明である。遠野南部領主八戸弥六郎の行列の後につくように遠野に向かったことは確かであり、とすると盛岡南部藩大老(藩主の代理全権)であり遠野の領主であった方は街道の主たる道筋を歩く可能性が高いと考えられるので、十文字で奥州道中から東に向かう盛街道に

入って伊勢堂前を通過し、渡しに至ったと考えるのが順当であろう。

 しかし調査踏査地図のごとく、水沢宿から渡しに向かう道筋は複数あったのも事実であろう。

(2)下川原~岩谷堂

(3)岩谷堂から蛤坂

(4)玉崎から白石沢

(5)白石沢から人首

(6)人首から上大内沢

(7)大内沢から五輪峠~鮎貝

2024年2月12日、2月18日五輪峠東西踏査

(8)小友~鷹鳥屋

(9)小友峠~下綾織

(2024年2月4日小友峠北側踏査)  小友峠の南北の道筋は、大正はじめの大日本陸地測量部地図とほぼ一致する。

(10)下綾織、日影~遠野

 

※遠野から和山街道を通り、小鎚・大槌(ここで一泊)、さらに山田~宮古の道筋は、別途アップしている、”岩手三陸近世浜街道を往く”https://www.kinsei-iwate-hamakaidou.jp/  からそこに挙げた”浜街道”とLINKから「和山(大槌)街道https://ootsuchiwayamakaidou.jimdofree.com/   をご覧ください。

 

 

参考文献・資料

・宮古市史 資料集 近世四

・森嘉兵衛:森嘉兵衛著作集第七巻、南部藩百姓一揆の研究

・民族芸術研究所 編:南部三閉伊一揆と現代

・佐々木京一:一揆の奔流

・佐々木京一:一揆の激流

・ 今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(2000~2022年) (ktgis.net)

・山田原三:歴史之道 巡見使街道